大阪府三島救急医療センター 072-683-9911

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医療センター長 冨士原 彰

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 当地域は全国に先駆けて、初期、二次、三次救急医療体制の整備が進められてきました。
 初期救急として、夜間休日応急診療所が、初期救急医療後方支援、つまり入院や手術を必要とする患者を受け入れる二次救急として、輪番制による病院群が、そして三次救急として、われわれの施設がその体制を構築して います。現在、救急医療体制が順調に機能している地域といえます。しかしここに至るまでの道程は決して平坦なものではありませんでした。
 当地域における救急システム化の芽生えは、1963年(昭和38年)高槻医師会第5代会長佐藤鳴海氏の時代、当時副会長であった高澤忠氏の医師会員による休日診療(在宅輪番制)、の発言にありました。その後、全国的に救急医療の在り方が問われる中歴代会長坂元、井口、芳川諸氏の熱意によって、1971年に休日診療所 1973年には全国でも珍しい365日、内科・小児科・外科・歯科(休日のみ、1978年から開始)の診療を行なう夜間休日応急診療所が開設されました。このことについて、当時、井口洋平会長は、「医師会を取り巻く外の波風によって、突き動かされたことであるとはいえ、救急医療の現状がこれ以上の遅滞を許さないという認識に立って、高槻市医師会が中心となって、市・市議会・大阪医科大学等々が力をひとつにして成し得たことであり、一市民の立場に立って見るとき、一大壮挙という外にない」(高槻市医師会会報第7号昭和48年より)と、高く評価されています。
 当初から諸氏には、夜間休日診療所の開設を糸口として、一地域にとどまらず、より広域性のある救急医療センター設立の構想がありました。この構想を実現するには、多くの問題が山積していました。なにより、関連する市町村、府、府医師会、大阪医科大学の考えが一向にまとまらないという困難な状況の中で、救急医療センターの設立のために奔走されたのが、初代所長、故田邊治之先生でありました。先生は、地域の救急対策協議会のメンバーの一人としてあらゆる場所、あらゆる人達に救急医療センター設立の必要性を次のように訴えらました。「たまたま運の良い人だけが、どこかの医療施設に収容され、治療が受けられるようではいけない。いつどこにいても、誰でも、医療が受けれるシステムを作らなければならない」と。その間、どれほど尽力されたかは、到底言葉で言い表すことは出来ません。多大な努力にもかかわらず、作業は、遅々として進まない。時間が経つにつれて、先生の口から弱気な言葉が聞かれることもありました。
 構想が提唱されて10年余、高槻医師会、大阪医科大学関係各位をはじめとして、当時の高槻市長江村利雄氏、島本町長故下村忠男氏ほか多くの方々の努力の末、医療センター設立が本格化しました。そして1985年11月、三次機能を有する救急医療施設として、当センターの診療が開始されるに至りました。今日の救命救急センターの幕開けであります。
 当センターは、開設当初から優秀な医療スタッフに恵まれ、また周辺医師会の協力により、急性期を過ぎた患者の受け入れを含めた環境も整備され、現状の疾病救急主体の救急医療にも遅滞無く、迅速かつ的確な対処が可能な体制を作ることができました。改めて当施設設立に関わられた関係各位の先を見据えた勇気ある決断に敬意を表したいと思います。
 日本の救急医療は、それぞれの時代の社会構造の変化に伴い変革を強いられてきました。1950年以前は、戦争によって、1950-1975年は、motorizationに伴う交通事故の急増によって、1975年以降は、疾病構造の構造の変化によって、常に外から影響を受け、変革を余儀なくされてきました。それでは、2000年には、どのような医療が求められているのでしょうか。我々医療側には、先を見据えた変革がすでに求められているのです。それにどう答えるか、当施設にも求められている課題であります。
 当センターの基本理念である①原点に立ち戻る姿勢、②一歩先を見る、③開かれた施設、④温かい看護、⑤誠実な医療を今後も引き続き堅持し、その課題に答えることが出来るよう、救急医療の発展のために努力していく覚悟であります。地域住民のみなさま、関係者各位のご理解とご協力をなにとぞよろしくお願い申し上げます。